先に断っておきますが、私は政治家 小沢一郎の支持者でも「小沢信者」ではないと自覚しています。彼を擁護したり応援したりするのは、反マスコミの立場から行っています。ただ、小沢アレルギーを患っている人から見たら、どんな形であれ小沢氏を擁護、応援するだけで立派な「小沢信者」なのでしょう。何度もそう言われてきましたし、そう思われることは仕方ないです。それは私の問題ではありませんけど、先に私の立場を明確にしてから、下記の文章を読んでいただきたかったので、書かせてもらいました。
私は、小沢氏を「現在、最もマスコミから被害を受けている人物」として見ています。日本のマスコミって、何かおかしいぞ?と思い始めてから十年近く経ちますが、その中で最もマスコミによる報道被害を受けている人物です。その理由は、彼の政策が既存のマスコミ企業やそのビジネスには、利益にならないどころか、既存マスコミの解体につながるものが多いからでしょう。その結果、小沢氏が国民のために有益な政策を挙げたとしても、マスコミがそれを「自由自在に表現を歪曲して」伝えるため、つねに彼にはマイナスイメージが付けられて終わります。
その反証になるか不明ですが、小沢氏公式サイトの「政策とオピニオン」を読んでみてください。彼の代表的なイメージ「影の独裁者」とはイメージが違う主張が並んでいます。マスコミから与えられた情報と、直接、小沢氏側からあなたに届けられる情報では、どんな違いがあるでしょうか。おそらく両極端に感じることと思いますので、普通なら間を取って中間ぐらいに受け止めるでしょうが、小沢氏に対しては「特別な対応」をされると思います。それが小沢アレルギーの反応の一つです。
小沢アレルギーとは、マスコミに植えつけられたマイナスイメージに囚われている状態のことを言っています。彼の政策的な主張に反対している方は含みませんので、どうぞ誤解なきようお願いします。
さて、マスコミがどうやって彼にマイナスイメージを植え付けているかというと、下記のような記事を例に挙げたいと思います。
「1億円」証言 小沢氏の説明聞きたい(5月16日)
記事の後半に「同氏には司法的責任とは別に政治的・道義的責任がある。」の一文があり、この責任を果たさない小沢氏は無責任であるという内容になっていますが、本当に裁判で裁かれていることに対して、国会で説明や主張することが政治的・道義的責任を果たすことになるのでしょうか?
いわゆる「説明責任」を果たせ!ですけど、相手が納得しない限り果たせない「説明責任」などという責任論に基づかない言葉を背景に書かれたこの記事は、彼の行動への批判ではなく、もっともらしく聞こえる「言いがかり」に過ぎません。時には金を払ってもらう読者に対して、自分たちの言いがかりを読ませるというのが、本当にマスコミの仕事と言えるのでしょうか?
また、こんなタイプの記事も山ほどあります。
民主党:統一選敗北で激論 小沢氏側近、執行部批判--幹事会
記事を読んでもらうとわかるのですが、ここに一切、小沢氏は登場していません。マスコミでは、山岡氏ら小沢グループの議員が何か行動するだけで、常に小沢氏の影が付きまといます。現在、役職はないけど一議員としてここまでの影響力がある人物はいないでしょうと、彼の凄さを感じるか、小沢グループの議員は「どこまでも小沢氏に操られているんだよ」と暗に示して独裁者的イメージを植えつけようとしているのか。受け取り方は読者に丸投げされる記事です。
例を挙げると切がありません。それは特定の個人に対する記事で、ほぼすべてが批判的な内容になる人物は、小沢氏の他にはいないからです。そういう記事を読み続ける読者がどう考えるようになるのか。小沢アレルギーは発症して必然といえる日本人の現代病の一つでしょう。
また、それは国民の一人として、とても残念だと思います。マスコミ不利となる政策を挙げたら、政治生命が終わる。そんな不公平が許されて、世の中の何が良くできるというのでしょうか?
マスコミには「報道の自由」という特権を、自らの利益誘導に使う自己中な報道姿勢を一刻も早く慎んでもらい、視聴者=国民のための報道というサービス提供に変えてもらいたいと思います。
しかし、すでにマスコミは、この小沢氏の件だけではなく諸々あって「狼少年化」しつつあると観察しています。表現を発信する者の責任を、いつからか果たさなくなったマスコミの落日が始まっているのは、受けるべき当然の仕打ちでしょう。...ざまあみろww