4月28日13時34分、特殊な癌(神経内分泌腫瘍の一種らしい)に侵された親父が永眠しました。享年68歳。4月中旬に大量の吐血をして緊急入院し丸2週間、ロクに治療はできないまま寝たきりを続けて、相当な痛みと苦しみの中、最期は眠るように息を引き取りました。
病気が顕在化したのは2月上旬。胸部中央に小さな瘤(こぶ)が出来たのが発見されて、その後、適切に診察と検査を続けてきましたが、原因がよくわからないまま、癌らしき瘤の進行が異常に速く、約1ヶ月後には同様の瘤が、ほぼ全身や体内に見受けられる状態にまで進行していたようです。その瘤には痛みがあったので、錠剤の鎮痛剤を服用しながら診察と検査を続けて、入院治療をする準備を進めていました。ここまで本人主導で。医師からは大体の告知はされていたようです。大体というのは、一応の病名はあるものの、これという原因は最期まで特定できないような珍しい腫瘍だったためです。
母も詳細はまったく聞かされていませんでした。緊急入院直後に私と母が主治医に呼び出され、詳しい説明がありました。前述の病気の詳細についてと、吐血による体力低下のため、現状では一切の治療は不可能で、いつ何が起きても不思議ではない状態と。いわゆる「手の施しようがない状態」という現実に突然、直面させられました。
私にとって、決して良いとは言えない親父でした。幼い頃は一緒に遊んでもらった記憶はあまりありません。数回、釣りに同行したのを覚えているくらいで、家族と常時、距離を置く感じだったので、私が思春期の頃から20歳ぐらいまでの間は、ほとんど会話をしない親子でした。私が社会に出るようになってから、親父の苦労が少しはわかるようになり、たあいのない友人のような会話をするようになりましたが、最期までほとんど酒を酌み交わすこともなかったです。冷えた親子関係からちょっとした友人関係へ、そう表現するのが今でもピッタリだと思います。
親父は、あまり社交的ではありませんでしたが、独特のユーモアがあり頭が良いという評判で我が一族では一目置かれる存在でした。大人しいご意見番みたいな感じです。その評判に相応しい対応を最期まで続けていました。瘤の痛みとのどの渇きについては弱音を吐いていましたが、それ以外は、最期までほとんど取り乱しませんでした。意識はハッキリしていたので、いつも通りの冗談交じりの会話に終始していました。
そういう人間が2週間という短期間でいなくなりました。私にとっては、生まれてから存在して当然の人がいなくなりました。親父と母は幼なじみだったので、母にとっても近い印象だと思います。正直、まだ2人とも実感というか喪失感などがあまりありません。何となく必要に迫られる感じで、相続とかの手続きを少しずつ進めていますが、それでもまだわかってない感じです。今後、法事や納骨を進めていく中で実感できるのでしょうか。
アニメ「プラネテス」でユーリが「大切な人がいなくなると、悲しくもつらくもないんです。何もないんです、気持ちが。考えないことです。考えすぎはよくないですよ。どんな相手とでも別れは来る。それが早いか遅いかだけの違いです。そう思わなければ、つらすぎるでしょう?」と言ってました。このセリフの後半は、まだよくわかりませんけど、前半は実感です。このセリフのまんま。後半がわかる日がいつか来るのかな。
最後になりましたが、親父の面倒を見てくれた「神奈川県立がんセンター」の皆様には家族一同、大変感謝しています。こちらに入院できて良かったと思っています。夜中でも気兼ねなく面会に行くことができましたので、仙台にいる弟も週末には来て、久しぶりに家族全員が揃う貴重な時間をできるだけ多く取れました。しつこくナースコールを押しても、毎回、ちゃんと来て対応してくれました。何より最期まで親父を人としての敬意を払って扱ってくれました。この場ではありますが、お礼を述べさせていただきます。どうもありがとうございました。